細波水波

さやさや揺れる風の中 さわさわ揺れる水の音 たゆたいながら月に10冊年100冊

教育と国家

講談社現代新書って、いつの間にあんなポップな装丁になったんだ?
高橋哲哉。・・・って知らなかったけど、靖国問題の著者だ。そういえばそちらも(むしろそちらが)山と平積みになっていた。某超大型書店の平積みの仕方はちょっと引いてしまうほど。本棚1つ分の壁一面を同じ本で埋めるのだから。(本に罪はないけどさ。)
それはさておき、一気読み。この手の本をこんな風に、自分の好みに合う(主張に共感できる)ものだけ読んでいてはいけないのだと思うのですけど、でも今日までの選挙活動なんか見ていると、つくる会教科書は私の住んでいるこの辺りではすぐそこみたいで。「心のノート」も見てみたい・・・ネットにあるかな?私がこの本を読んだって買ったって、選挙の結果が変わるわけじゃないのだけれど(地方選のどこに主義主張の差があるのだろう?)。
もとい、哲学としての問いかけは、「愛を学校で教えることができるか。」
それが「愛国心」であろうと「個人の尊厳」であろうと。
「できるか」「適当か」「すべきか」・・・「ものによる」か。「ものによる」って答えは卑怯じゃない?そう思うんだけどやっぱりものによるのかなあ。「できない」だと簡単なんだけど、だけどそれはできなくはないのだ、きっと。そこそこに技術はいるにせよ。(国を愛しなさい、個人を大切にしなさい、なんて拙劣な手法は論外だ。)「教えるべきではない」だと論理的に一貫するのだけれど、・・・やっぱり抵抗があるのだ。「ものによる」のか。ものによるなら、「愛国心」というものをなぜ私は胡散臭く思うのだろう。他国の感情も尊重するとか、大和民族に限らないとか、いっぱいいっぱいそれが妥当なものになるようにたくさんお化粧をしていっても、なお胡散臭いと思うのは何だろう。
おまけ。国旗掲揚と国歌斉唱の実施そのもの(実施されたときに従わないことでなく)を問題にしていいってことは、そういえば、言われるまで忘れてたよ。もちろん私の切実な問題になるのは、実施されたときに従うかどうかの方なんだけど。東京の卒業式で、座っていた保護者がわざわざ立つように求められたって、ほんと?
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