細波水波

さやさや揺れる風の中 さわさわ揺れる水の音 たゆたいながら月に10冊年100冊

女はなぜ土俵にあがれないのか

内館牧子。いわずと知れた横綱審議委員、しかも最も存在感ある委員(←私だけの感覚ではないと思う)。でもって、土俵は女人禁制であるべきだ、とのご意見の持ち主。でもってこの問題を研究するため2003年から東北大学大学院で3年間研究し、修論をまとめ、それを噛み砕いたのがこの本。
まずはその姿勢に感服します。そして意見の相違を脇に置けば、この本はとても読みやすいし面白い。そして結論にも概ね同意します(後述)、けれど私は土俵は女人禁制であるべきでないとの思いを読んで一層強くする。まさに内館さんのいうとおり「不毛であることを承知で」繰り返されざるを得ない論争なのだ、これは。

ことは表彰式にはじまったのではなかったのでした。この本で知ったのですが、元官房長官森山眞弓がこの問題に始めてかかわったのは昭和53年、労働省婦人少年局長時代。わんぱく相撲東京場所の予選を勝ち抜いた10歳の少女が、女人禁制を理由に決勝の国技館の土俵にあがれず少女は決勝を諦めたという事態に森山さんは怒り、協会理事に詰め寄ったとの由。官房長官として総理大臣杯を授与すると言ったのは平成2年(言ったもなにも歴代官房長官が渡していたのですから協会が女性を土俵に上げないという以上問題となるのは必至でしょう)、森山さんはもちろん15年前のことを覚えていたでしょう。
協会はこれを拒み、そして10年後、女性初の横綱審議委員が生まれる。 さてこの最初からお立場が明確な内館さんの研究成果、読まれたほうが面白いですけど要約すれば「場所中、土俵は俵などで結界された聖域である」「だから俗世(=男女同じにする)と異なるルールが適用されてよい」。論考の過半は前者に関するものです。
で、後者にも異論はあるでしょうが(私はこれを完全に受け入れることはできませんが完全に否定もできません)が、読んで私の中でもはっきりしたのは後者は現在起きている問題の中心でない、中心にすべきでない、ということです。そりゃがちがちに言えば後者のほうが本質でしょうが、いま問題になっているのは表彰式、森山眞弓太田房江もいまのところ女性に大相撲を取らせろ、と言っているわけじゃないのです。求めて対立が先鋭な部分で議論する必要はなく、適当とも思いません。
で、ここで問題になるのが前者の「場所中」で、私が内館さんの結論に概ね同意するというのもここ。土俵には場所前日に神が迎えられ、千秋楽の日にお送りされます。神送りの後の土俵はただの俗界。で、内館さんは「そんなに土俵にあがりたいなら表彰式を神送りの後にすればいい」とおっしゃるわけです。「そこまでしてあがりたい気持ちにまったく理解も同意も示せないが」と。
そうすればいいんです、そうすべきじゃないですか?少なくとも相撲協会が府知事賞を辞退しない以上、相撲協会からのイニシアチブでそうすべきだと思います。(むしろ府知事賞を辞退すべきという点も内館さんに同意するところです。))そうすればいいのに土俵にあがらせないところで頑張ることに、私はまったく理解も同意も示せません。
いや表彰式が重要なわけじゃないのです。森山さんと先に書いた昭和53年の少女の話、現在からの眼になりますけど、そりゃ怒りますよ、さすが雇用均等局長(←現在の名称。当時はまだ均等法も夢のまた夢ですから、この一事だけでも私は森山眞弓を尊敬します。)表彰式はともかくも、これを差別と言わずして何を差別と言うのか。頑張ったのに単に性別を理由に報われない、ということを差別と言うのでしょう?ここに繋がるからこそ表彰式という場でも問題になる。
これも、上記の内館さんの整理に従えば、当然場所中のことではないので国技館の土俵もただの俗界、少女が上がれない理由はなかったわけです。いえ、国技館がだめでも、別の会場で決勝をやればよかっただけのことなんです。・・・そんな解決は本質的でないって?それでも。
これは現在の眼です、それはわかってます。あのころはそんなの、たぶん当たり前だった。男女別の採用も昇格制度も当たり前、女子若年定年制(30歳定年とかですよ?!)が判例ではどうにか違法とされてはいたあたり。それでも昨年書かれたこの本で、このエピソードを冒頭付近に持ってきて、少女へは配慮が多少は読み取れるもののでもこのエピソードで森山さんを批判する、その内館さんが私には分からない。同じ事実に立脚しても「不毛であることを承知で」お互いに主張を続けるこのすれ違い、面白い本であるからいっそうやりきれないところです。
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ところで、私は小学生のとき月経の間はお宮に行ってはいけないと言われたことがあります。もっとも、家の前の神社に初詣のとき限定でくらいの認識ですが。(観光で遠くの神社に行くときは気にしていないし、家の前のお宮さんを普段通り抜けたりそこで遊んだりするときにも気にしない。)言われたときは猛反発しましたが、翌年以降は初詣がめんどくさいときに理由にしたりしたたかに運用していますが。
仮に私に娘ができたとき、これを言うかどうか・・・かなり悩みます。従うべきものとはまったく思っていませんが、息づいた伝統というか風習というか、伝えないのはもったいない、という気もするのです。