細波水波

さやさや揺れる風の中 さわさわ揺れる水の音 たゆたいながら月に10冊年100冊

裁判官はなぜ誤るのか

秋山賢三元裁判官・現弁護士。冤罪が生じる理由や冤罪防止のための提言、袴田事件や最近問題の痴漢冤罪についてなどなど。取調べのときに自白してしまうと、(それが嘘でも、)それを裁判でひっくり返すのは至難の業だということは改めて大声で(?)書いておきます。しかしそれにもまして恐るべきことに、取り上げられている痴漢事件は最初から最後まで否認していて物証もなく、目撃者もなく被害者の証言のみによって有罪とされた事案(自白調書があったところで冤罪は恐ろしいことですが)。いえ、これが冤罪かどうかはわからないのですよ、裁判所はこのひとの痴漢行為があったと認定したのだから。だから冤罪は怖いのです。裁判所の判断がすべて。
でも、裁判所だけが怖いんじゃなくて。冒頭に出てくる法格言「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰すなかれ」。これに頷く市民はさて何人、何割いるでしょう。私にだって頷くのには僅かにためらいがある。とはいえもしその一人の無辜に私がなると考えたら、やっぱり頷く。その「もし」を考えるのが、法学部で延々学んで来たことなのだ(それだけじゃないけどさ、もちろん)。法は万人に適用されるものだから。そして、人は間違えるものだから。
自分が被害者になったとき、も考える。そして、自分が加害者とされたとき、も考える。
(加害者になったとき、も被害者とされたとき、も考えないといけませんがね。)
→ Amazon.co.jp 私が被害者だったら。真犯人が逃れたら納得できないだろう。それでも、私は罰される無辜にはなりたくない。だって、そのひとは無辜なのだ。疑われたって、逮捕されたからって、真犯人ではないのだ。そしてそれがわからないとき・・・わからないからって、誰でも罰していいわけではない。だから「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰すなかれ」。
被害者に、なってみなくてはわからないけど。けれど、その一人の無辜にも、なってみなくてはわからない。
ああ、やっとためらわずに頷けそう。それを「よかった」と思うのは、私の素直な感情です。

※上記の痴漢事件、被害者が嘘を言っているというのではありません。ただ人間は、間違えるし思い込む。痴漢行為はあったとして、それがその人かどうかはまた全然別問題。