細波水波

さやさや揺れる風の中 さわさわ揺れる水の音 たゆたいながら月に10冊年100冊

裔を継ぐ者

月神シリーズ、時代を下って。しっかりまとまった正統派の成長物語。
何度も何度も胸が痛くなるのですが、私にとっていちばんは旅の序盤、気遣ってもらったことをうれしい・・・すごくうれしい、と思うその喜び。いまだ(だってまだ旅は始まったばかり)弱虫のわがまま者という形容が当てはまる主人公サザレヒコの、その素直な素直な喜びは、読み返せば読み返すほど胸を打つ。もちろん気遣った側の寛さもともに。
この成長譚の要は<感謝>なのだけど、どうしても、どちらが先なのだろうと思うのだ。与えてくれるから返せるのか、感謝したから与えてくれるのか。それはサザレヒコが(あるいはサザレヒコの両親が)どこで間違えたのか、ということでもある。前作で濁った瞳の川のカムイにポイシュマが尽くす謝罪と感謝が慕わしいのも同じこと。この川のカムイといまだわがままなサザレヒコが出会ったとして、物事はこうは進まない。それはどちらが悪いということでもない、きっと。けれど望ましい道は、はっきりと別にある。
非礼にはそれに応じた報いのあるこの物語。礼にももちろんそれにかなった報いがある。けれど、のどが渇いてたまらないから川のカムイにあいさつをする、それは礼儀なのかどうなのか。・・・この「礼儀」からはじめつつ、すぐ次に来たヌシの気遣いは無条件のものだったから。それはうれしいよ。すごくうれしい。私たちには時として、その恵みが必要なのだ。願わくば、いつか誰かに私がそれを返せているように。

弱虫、もわがまま、も、それはサザレヒコのせいだけではないことは作品中で意識されながら、しかしヌシは目の前にいるサザレヒコだけに求めるし、いいわけは見苦しい。見苦しくはありながらわがままな考えもその言い訳もああ、わかるというところがまたよいのだけれど、でも自分は自分で良くするしかない。そこを揺らがさないからだから惹かれる成長譚なのですが、それでも無条件の恵みを、まさに成長するために求めてしまう自分が度し難い。けれどこの作品中、それはあちらこちらにちりばめられていて、なのに揺らがない骨格に感嘆するとともに、うれしい、すごくうれしいのです。
→ Amazon.co.jp 食べることへの感謝が、あらゆる感謝に意識の水底でつながっている。狩りの獲物への感謝は、この旅の大きな一里塚ですが、そこへいたるまでに着実にステップを踏んでいるのが素晴らしいところ。ヌシの捕らえた鳩をめぐるエピソードが、それはそれとして重いものですが、サザレヒコが自ら鳩を仕留めるときにこれまた重い意味を持つ。そして、次にウサギを狩る気持ちになれるまで、その過程も十分に丁寧で。(しかもその過程が、慕わしい恵みにあふれ、なおかつ伏線もあったりする。ヌシの捕らえた鳩の話も同じなんですが。)そもそもの過ち、だから償いにも繋がるこの感謝、ともすればお説教になりかねないのにお話としてとても耳にやさしい。
1冊としてはこのシリーズ5冊の中でいちばん好きだったりしますが、ここにいたるまでの過去を踏まえているからまた素晴らしいのもそのとおりで。ポイシュマが弓を引きたがったこととか、アテルイの旅とか、対になるお話があるのが嬉しくて、そんな先達を知るためだけでも(?)やっぱり語りは継がれるべきだと思ったり。
そして、ヌシの言葉が、とても強く、美しいのです。サザレヒコと友達のような、普段遣いの男の子の言葉でありながら、正しく、厳しく、朗らかだったり。ちょっとだけ、意地悪だったり。その声で気遣ってもらえたら、それは、やっぱりうれしいんだよう(>_<)。