細波水波

さやさや揺れる風の中 さわさわ揺れる水の音 たゆたいながら月に10冊年100冊

君は雇用社会を生き延びられるか

センセーショナルなタイトルと斬新な構成ですが、中身はいたって真っ当です。職場で上司がお求めになったので借り。買うかどうかどうしようかなー。
労働法って、いまや賃金でもましてや組合でもないのかな。のかな、って疑問形が空々しいくらいかな。それでも解雇、解雇っていうか失業なんだよな、怖い=ストレスの背後にあるもの。脳・心臓疾患としてはもちろん時間でいいか、でも労働時間で人が死ぬのはやっぱり医学よりも社会通念だと思う、脳心が行政訴訟先行で、精神(自殺)が民事訴訟先行だった歴史には、ひどくもっともな労災補償の拡げ方の何か秘密がある気がする。それっていったい、何だろう?

労災補償は広がって来た。うつ病も脳・心臓疾患も労災にならない国の方がはるかに多いけど、この国の人は下手すればそれこそが労災だと思っている。この本はそういう世の中に立脚した構成。
それが悪いことだと言いたいわけじゃないんだけど、労災と認められるのはすべてじゃないから、時間の長さ、ストレスの強さでどこかに線が引かれる。線の下だって負荷がゼロじゃないから、何故認められないのかと不満が募る。
不満という日本語は適切じゃない、遺族にとって、それは無念というしかない切実なもので。仕事のために死んだと認められたい、認められて当然だ、認められなければ浮かばれない…。どこに線を引いても、この思いは解消しない。必ず線の下でそう思う人がいる。さらに言えば現実の負荷はたぶんピラミッド型に分布してるから、線が下がれば下がるほど、あと少しで認められないっていう無念を抱く人は増えるのだ(線よりはるか下なら、きっとそれは無念にならない)。

労災補償が広がって来たことは、間違いでないと思っているけど。世の中全体の不幸、無念を減らしたかどうかはわからない。いや、きっと減らしてない。高い負荷のところのもっともな無念、それを晴らしたのだと思いたいけれど。遺族にとってみればどの無念だってもっともなもの。
大内先生のブログでは、イタリア人の優先順位は仕事より休暇にある。仕事のために休む(リフレッシュする)のではなく、休むために働くと書かれていた。そういう世の中だったら、仕事のために死ぬなんて、何をバカなことをという意識になるんだと思う。過労も起こらないかも知れないが、過労死と認められたいという気持ちも起こらないだろうと。

いまの日本の価値観を、もちろん私も共有している。夫や息子が死んだとき(妻や娘の例は希少だ)過労死と認められたい、そういう気持ちはもちろんわかる。働かせすぎる世の中がおかしい、その気持ちもわかるんだけど。
・・・過労死と認められたいという願いと、働かせすぎる世の中は、コインの裏表じゃなかろうか。
結局私たちはこの世の中にいて、そこでできる限りの道を探すしかない。無念が存在する限り無念を抜本的に解決する道はない、それと思いつつ少しましな道を探す、本の感想からだいぶ離れたけど勤労感謝の日に寄せてのおぼえがき。